秋桜のエッセイ

支援を受ける側から支援する側へ(その5)(アスペ・ハート17号掲載分)

2008-03-19

支援を受ける側から支援する側へ(その5)

(幼稚園の思い出)
幼稚園はキリスト教関係の小規模な所でした。前回も書きましたが、当時としては珍しく障害のある子どもたちを受け入れていました。また母は課題をする時間と自由に遊べる時間のバランスが良かったことで選んだようです。

送迎バスもないため徒歩での通園で、いつも誰かの親が付き添っていました。そのためか園の先生と親とのコミュニケーションが比較的取りやすく、先生たちも誰かが子どもたちの様子を見守っているような感じでした。

ここには年子の姉も通っていました。母は姉の幼稚園を選ぶ際私も通うことを念頭に置いて選んだそうです。そして行事には必ず私を一緒に連れて行ってくれていました。環境の変化に弱い私にとってこれはとてもいい対応だったと思います。自閉症の子どもは見通しが立たないことに対して弱いものですが、事前に「1年先に何をするのか」を姉がしているのを見ることができたため、幼稚園にもあまり抵抗なく通えたようです。

幼稚園の先生にも入園前に私を見てもらい、先生と母が連絡を取り合いながら様子を見ていたようでした。もちろんその頃の私は全然そんなことは知らなくて自分のペースで行動していましたが、何人かの同級生や先生の名前を覚えているし、居心地も悪くなかったのでいられたのかなと今となっては感じています。

それでもこの頃から「自分は他の子とどこか違う」ということを何となくですが感じていました。まず入園後最初に「お絵かきをしましょう」と言われてクレヨンを渡された時に何をすればいいのか分らなかったし、描きたい物も思い浮かばなかったのです。仕方ないのでぐるぐる描きしたものを提出したのですが、後日他の子と並んで壁に貼られたのを見た時のショックは今でも覚えています。他の子の作品はちゃんと人や物が形となって描かれていて、色もカラフルでした。でも私の絵は焦げ茶色クレヨン一色で描かれたものに絵具を塗っただけというもので、明らかに奇妙な感じでした。

おそらくこれが自分の障害というものを意識した最初の体験だと思います。もちろん当時はこの気持ちを表現することはできなかったのですが、どこか自分が変わっているという確信のようなものは感じました。そうは言っても当時は対処法も分からなかったし、だから何をしたわけでもないのですが、私の中で何かが変わった時だったと思います。

実際にそれが形になるのは半年ほど後のことで、ある日スケッチブックに突然女の子2人とひまわりの花を描いたのをよく覚えています。それまでは全然絵らしい絵を描いた覚えがないし、描こうとも思っていなかったのですが、なぜかその時は夏の日に見たひまわりの花を描きたくなって描いたのでした。確かその時幼稚園の先生がびっくりしていたことも何となくですが覚えています。

どうも私は情報の入力と出力に差があるためか、ある日突然今までやっていなかったことをやって周囲の人を驚かす傾向があったようです。ことばについてもほとんど声すら出していなかったのにある日突然母に「ねえ、本読んで」と文章で話しかけていたらしいです。

理由は今でもよく分らないのですが、思い当たるのは「ある日突然やり方がわかった」「分からないままやって失敗するのがイヤ」ということです。これは私が同時処理系の傾向が強いことが関係しています。同じようなタイプの子どもを指導していると過去の自分を見ているような瞬間があります。本当にある日突然「スコーン!」という感じで理解している様子が見られるので「あ、今分かったんだな」と思うことがありました。

神経心理学の側面から人間の情報処理過程を考えると同時処理と経次処理という2つの側面が出てきます。文字通り前者は物事を一度に処理していく能力、後者は物事を時系列に沿って処理していく能力を示しています。どちらかと言うと同時処理は視覚的な情報処理、処理は聴覚的な情報処理と関わっています。それに付随してか、同時処理が勝っている人は全体的な状況を把握するのが得意ですが、経次処理が勝っている人は物事を一つずつプロセスを追って処理するのが得意な傾向があります。

もちろん人間の行動や思考は複雑ですからどちらか一方の処理だけ、ということはありません。また、同じ課題でも同時処理的な解き方をする人と経次処理的な解き方をする人がいて、結果は同じでも解答を導くプロセスにかなり個人差が見られるものです。これは発達障害の有無に関わらずよく観察しているとよく分かります。ただ発達障害のケースではどちらか一方だけが突出している、もしくはそれぞれの処理はできても組み合わせることが困難なケースということが多い印象があります。

ですから私が学習につまずいている時は物事の全体像が見えないことが多いのです。場合によっては解答を読んで、なぜそうなるのかを考えながら学習した方がいいこともあります。それと同時に運動面では一度全部やってみてどこがいけなかったかを身体で確認してから何度か繰り返すことでどんどん身について行きます。恐らくある動作が身についていく際にも何度も目で見て全体像を確認しながらイメージや小さな動作で体に覚えさせていったのだと思います。

通常学習というと要素をバラバラにしてスモールステップで教えて行くイメージがありますが、中には全体の流れを繰り返し見て行きながら自分なりに要素に分けて覚える、一度に全体をやってみることを繰り返した方が学習しやすいタイプがいる、ということを理解してもらいたいな、と思うことがあります。

幼稚園の活動で大嫌いだったのがお遊戯でした。私にとってはかなり苦痛で、「なんでこんなことをしなければいけないのだろう」とかなり幼心に疑問を感じていたことは今でもはっきり覚えています。年中の運動会の時に「アヒルのダンス」というのをやったのですが、まずアヒルのお面に色を塗る、ということが苦痛でした。図鑑や近所の公園の池で見るアヒルは黄色いくちばしに白いものが中心だったのに、それ以外の色を塗ることが許せなかったし、同級生たちがカラフルな色に塗っていることも不快なことでした。「それは実際のアヒルとは違うからアヒルじゃない!」という気持ちでいっぱいでしたが、それをことばに表せる力が当時はなかったので先生たちもなにも言いませんでしたが、私がどうしてくちばし以外何も塗らなかったのか不思議だったようでした。

自閉症の子どもたちは「ふりをする」ことが苦手と言われています。「この空間にいるためにはみんながやっていることをやらなければいけない」「先生の言うことは聞かなければいけない」といったことは分かっていたので課題は一応していましたが、お遊戯や演劇などの課題では「なんで自分の気持ちとかけ離れたことをわざわざしなければならないのか」「なんでこんなわざとらしい表現をするのか」という気持ちでいっぱいでした。他の子は楽しそうにやっていただけに、どうして自分はちっとも楽しくないのかが分からずに子どもながらに違和感で苦しかったこともありました。

成人後スーパーバイザーに自分が感じていた気持ちを話したところ、「それは『子どもはそういうものが好きだ』という固定観念に大人側が捕らわれていたせいなのかもしれないね。大多数の子どもたちはそうなのかもしれないけど、中にはそうではない子もいること、自分の想像以外の状況もありうることをもう少し大人の側も配慮する必要があるわね」と言われたことがありました。

実は今でも私は所謂「ベビートーク(大きな抑揚をつけた話し方)」をするのはあまり好きではありません。子どもたちがそういうスタイルで接してきた時には自然とリズムを付けた話し方が出てきますが、かえって他の大人がいつでもベビートークをしていると違和感を覚えます。むしろ普段と同じ話し方で話した方が伝わりやすい時もあるし、自閉症の人の中には抑揚がありすぎると意味を捉えられないこともあります。

そもそも人間というのは個人の数だけ適した学習方法があるものです。残念ながら今の日本の社会ではあることを学ぶのに限られた方法しか教えませんが、本来ならばその子に合った方法を考え、個別に対応していく機会がもっとあってもいいのでは、と私は感じています。平等というと「みんなに同じものを」というイメージがありますが、私は本当の意味での平等とはその人の立場やニーズに合った支援などを受けられることだと考えています。何よりその人に合った対応をしてもらえることで人は自尊心が育ちます。大切にしてもらっているという実感がわきますし、それが自己肯定にもつながるのではないでしょうか。実際私は大人になってから自分が持つ違和感の理由が分かって納得できたことがたくさんあります。

そのためにも私は評価がとても大切だと思っています。中には評価ということばに対して拒否反応を示す人がいますし、「ありのままの姿を受け入れることが大切なのに、どうして評価なんかするのだ」ということをいう人もいます。しかし療育現場での評価というのは入試や資格を取るためのものではないのですから、どんな結果であってもいいとか悪いということはないはずなのです。

本来評価というのは対象者がどんな人間でどのように世界を見ているのか、そしてそのためにどんなトラブルが生じているのか、それを今後どうやって改善してくといいのかをみんなで考えて行くための指標だと考えてほしいと私は願っています。むしろ大人側がテスト=点数をつけて優劣やランクを決めるものというイメージが強いために拒絶反応が出てしまうのでは、と私は考えています。

(感覚を育てる)
就学までに親御さんにぜひ意識してほしいことの中に「感覚を育てること」「負担の少ない身体の動かし方」ということがあります。これは体育とか運動という以前にまず自分の身体がどうなっているのか、どう動かすと目的に沿った動きがよりよくできるのかを確認するためです。そのためにも大人たちも身体に関する系統的な知識を学んでほしいと思っています。

発達障害の当事者の中には運動が苦手な人が少なくありません。中には得意な人もいますが、よく見ていると代償的な動きをしていることがありますし、筋肉や関節のバランスが悪いケースも見受けられます。「一応できているからいいんじゃないか」という意見を聞くこともありますが、よく見てみると肩の関節が柔らかいために肩を上げてしまう、膝などの関節が必要以上に曲がってしまってうまく歩けていない、食べ物をうまく噛めない、飲み込めないといったケースは意外に多いものです。このような場合は確実にできている段階を見極め、必要に応じて本人の能力に合った段階まで戻る必要があります。

もちろん中には「大人になったらそんなに必要ではないから、同じような能力が必要でかつ日常でより求められることをやった方がいい」という場合もあります。例えば折り紙は大人になったら必ずしも求められませんが、端と端を合わせて折るということは洗濯物を畳む際に求められる能力です。だとしたら折り紙よりも実際洗濯物を片づける時にハンカチやシーツを一緒に畳んでみるといったより大人になったら必要になってくる作業で代用した方がいいこともあるでしょう。

よく幼稚園から小中学校のお子さんを持つお母さん方とお話ししているとできないことの相談をされます。しかしよく聞いてみると「それは大人になったらあまりできなくても特に社会で生活する上では困らないのでは?」ということと「自活するためにはそれはできないと困るのでは?」ということがあまり整理されていない印象を持ちます。

相談されることでよくあるのが体育や運動に関することです。縄跳びができない、逆上がりができない、といったことは幼稚園や学校にいる間は確かにできないと困るだろうな、ということです。でも社会に出てからもそれらに関する能力を求められるような仕事というのはかなり特殊な職業ではないかと私は思います。

むしろ「椅子に長時間椅子に座っていられる筋肉を鍛える」「足の筋肉を鍛える」「関節に負担をかけない動かし方を習得する」「自分の体の特徴を理解する」といった項目が体育にあればいいのに、と自分の経験では感じています。特に自分の体の特徴を理解する、自分の体の感覚を意識して学ぶことはとても重要だと思っています。

発達障害の人たちは自分の体の感覚とことばが結びついていないケースが非常に多く、その影響でコミュニケーションに支障をきたしていることも多いのです。例えば痛み一つとっても「どんな痛みなのか」「どこが痛むのか」「いつから痛むのか」「どの位痛むのか」といったことをことばで表すことがかなり難しいのです。それは痛いというのがどういうことなのか、どれ位痛いと危険なのかといった感覚があやふやだからだと私は考えています。本人の感覚をうまく周囲の大人が理解し、整理することが成人になってからの生活でとても大切なことだと思います。

それと同時に支援者が気をつけなければならないのは定型発達の人の身体とは関節や筋肉が弱いため、本人に合っていない方法だと身体を痛める可能性があるということです。また、筋力が弱いために疲れやすいといった問題があるケースもあります。そのためにも幼い頃から適切なトレーニングで基礎体力を上げて行くというのは社会に出て働き続けるためにはとても重要なことだと自分の体験からも感じています。

スポーツをするのもいいとは思いますが、もっと基本的な身体の動かし方を学び、ことばと動作がどの位一致しているのかといった確認や学習を習得することが大切だと色々なケースと関わってみて実感しています。

それは以前にも書いた運動のフィードバックも関係していますし、体の構造が問題になっていることもあります。私の場合は最初見たものをそのまままねることが苦手です。発達障害者の中では比較的運動の学習能力が高いので何とかそれで補ってきました。つまり全体を繰り返していく中で方法を体に覚えさせたり言語化することがそれなりにできたから体育などでも一通りのことができたのだと思います。しかし先にも書いたように自分に合った覚え方をなかなか許してもらえなかったこともありました。

現在ピラティスのトレーニングをマンツーマンで受けていますが、30歳を過ぎてようやく身体を動かすことの楽しさや自分に合ったトレーニングをすることで自分の体を楽に使えることを学んでいます。「普通の人ってずいぶん楽に身体を動かしているものなのだな」「自分の身体が他の人に比べて疲れやすいのには原因があったんだな」と新たな気づきがあります。関節が緩いために起こるトラブルに対応するためには筋トレが欠かせないのですが、たいていの本に載っている方法だと私の場合は関節や靭帯などを痛めてしまう可能性があるため、トレーナーにもあれこれ考えてもらっています。

トレーナーに言わせると医学系の知識がある(=身体の構造が分かっている)分他の人よりは有利で、勘もいい方らしいのですが、やはり関節や筋肉のことがネックになっていたのでは、と指摘されました。そして残念に感じるのは、こういうことがもっと小さい頃に分かっていたら…ということです。トレーナーに個別メニューを作ってもらって自宅で自主トレしていますが、着実に成果が出てきているのでやはり自分に合った方法でやると全然違うものだなと改めて感じています。

また左利きであることも幼い頃はハンデになっていました。幼稚園の頃右利き用のハサミがうまく操作できなくて先生に相談したら先生は難なく切れて「バカね~」みたいなことを言われて悔しかったことを今でもよく覚えています。よく観察すると先生は右手で切っていることに気付きました。でもその先生は私が左利きであることには全然気付いていなかったのです。

「だって先生は右手で切っているじゃない!私は左利きだからうまく行かないんだもん!」と心の中で思っていましたが、うまく口に言えなくてその後必死になって右手でもハサミが使えるように密かに自主トレしました。家でも母が「せめて鉛筆と箸だけは右手でやれるようになってほしい」と考えたので、5歳頃から右手に直されました。箸は今でも左ですが、鉛筆は右が主になっています。その頃は「どうしてこのままではいけないの?」と少し悲しい気持ちになったこともありました。

何よりも辛かったのはそんな自分の状況をなかなか周囲の大人に理解されなかったことでした。当時は言語力がなくてうまくことばにできないために随分誤解されていたことも多かったです。私に限らず発達障害の人たちは誤解されやすい面を持っています。それは立ち居振る舞いなどから仕方がない面もあるとは思います。しかし定型発達の人からは想像もつかないような事情があることは往々にしてあるものです。やはり常識というものを保ちつつも常識から外れた視点がないと発達障害を理解し、かつ支援するのは難しいものだな、と感じています。

周囲にいる人が分かればいいのですが、なかなかそうはいかないのが現状でしょう。また意外と定型発達の人でも自分の身体がどんな仕組みで動いているのか、というのは知らないものです。だからこそ全ての人が子どもの頃から自分の身体の状態や感覚のことを学ぶ機会があった方がいいと思っています。

最近定型発達の人を相手に身体の仕組みやコミュニケーションについてセミナーをしたのですが、改めて日本ではこのようなことを教育される機会が少ないことに気付かされています。知識を蓄えることも大切です。でももっと一人ひとりがみんな違った身体や心をもっていて、コミュニケーションも色々な方法があってもいい、ということになった方がみんな気持ち良く生活できるのに、とつい考えてしまいます。

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