秋桜のエッセイ

支援を受ける側から支援する側へ(その6)(アスペ・ハート18号掲載分)

2008-03-19

「学校」という名のモンスター

1.引っ越しと最悪の学校生活スタート

両親は私の小学校入学を機に電車で5つほど離れた所に一戸建てを購入し、引っ越すことになりました。後から聞いた話によるとその頃見知らぬ人が私たち姉妹が昼寝をしていた部屋を外から覗いていたことがあったそうです。母がそれに気づいて近寄ったら慌てて逃げたため何事もなかったのですが、それが引越しの一番の決め手になったようです。他にも子どもたちが大きくなってきて部屋が手狭になったこと、姉がかなり本格的にピアノをやるようになって団地では騒音などに気を遣うようになってきた、という理由もあったそうです。

転居しても姉が通っていた小学校へ通えるものだと思っていただけにこの私にとって予定外の出来事はまさに青天の霹靂でした。しかもようやく仲良くなってきた数名の友人とも別れて遠くの学校へ通学することになり、かなり心細いものになったのはよく覚えています。元々その子たちとは別な学校へ行く予定でしたが、放課後に会って遊べると思っていただけにかなり大きな痛手になりました。

今思えば親も親なりに話してくれていたし、一緒に不動産屋に出かけたりもしていましたがなにぶん経験がなかったことだけに言われていることの意味がよく分からなかったようです。発達障害の子どもたちの場合、その場では分かったようなふるまいをすることがありますが、よくよく様子を見ていると実はあまりよく意味が分かっていないことがよく見られます。もちろんこれは定型発達の子どもたちにも見られることですが、より顕著にみられることだと私は感じています。

特にアスペルガーの子どもたちというのはことばの遅れがあまりないだけにしゃべっている内容はそれなりのことを話してしまうので周囲が「話しているから分かっている」と思いがちです。しかし「知っている」ことと「理解している(=分かっている)」さらに「行動する」ことには大きな開きがあります。セラピーの時間、私が子どもの考え方を丁寧に聞き出していくと大抵の親御さんたちは「こんなことを考えていたとは…」とか「もっと分かっていると思っていた」といった反応をします。そして親御さんの考えを聴いてみるとそこには「聞いたことや、やってみたことはないけど、この位は分かっているだろう」という解釈や思い込みがかなり入ってしまっていることが往々にして見られます。

もちろん人間である以上、解釈が入ることは仕方がないことです。しかしそれを意識している人というのはとても少ないのです。自分が見た世界だけが絶対だと感じてしまう人の方が多いし、自分にとって都合のいいものしか捉えていないことがよくあります。

私の両親にしても私たちが大きくなってから「今考えるともう少し引っ越しは慎重にした方が良かったと思うことがある。でもあの時期に家を買わなかったら地価が上昇して都内で今の家と同じ大きさの家を買うことはできなかっただろうから、判断するのは難しいことだった」と複雑な心境を話してくれたことがありました。

入学後新居の近くの学校へ通い始めましたが、姉も私も慣れないせいかずっと「前の家に帰りたい」と母に訴えていました。そんな中私は給食の時間緊張のためか吐いてしまい、それ以来クラスメートからいじめられるようになりました。もちろんこれはきっかけにしか過ぎず、周囲とのコミュニケーション不足によるトラブルも原因だったと今になると感じています。

当時私は偏食が多く、その日も私が苦手な食べ物が出ていたので恐らく「どうしよう…」という不安から軽いパニックになっていたのだと思います。その辺りの不安を周囲の大人がもう少しキャッチして気をつけてもらえたら、きっともう少し違った学校生活になったのかもしれません。

担任の先生も先生なりに頑張ってくれていましたが、私の特性は理解できなかったようです。むしろ「勉強はできるけど、性格に問題がある」といった反応でした。先生は意図していない形ではあったでしょうが、それがいじめを助長させていました。小学校低学年位の子どもはその辺の調整能力や問題解決、そして抽象的なことを考える能力というのはまだまだ備わっていません。そのため攻撃するターゲットが決まってそれを大人からも何らかの形で承認されたと子どもたちが解釈した場合、それこそ際限なくいじめてきます。

子どもというのは抑制が取れた状態ではかなり残酷なものだ、というのを大人は忘れないでほしいと思っています。大人というのは理性や社会性があればある程度人と自分が違っていてもそれなりに妥協ができます。自分に利益があると思えば我慢もできますし交渉したり話し合う、という解決方法を模索することもできます(もちろんそれが難しい大人もいますが)。現在の社会で最も必要とされているのは自分と価値観が異なる人とでもコミュニケーションを取ってお互いが納得がいく妥協点を見つけて問題を解決する能力です。

もちろん大人から「そういうことをしてはいけない」と話をされていて頭では分かっている子もいますが、それは大人(特に親)からのやり方の受け売りであることが多く、その子が本当に理解して行っているケースは少ないというのが私の印象です。できたら小学生低学年を目安に「自分の考えをまとめる」「ニュースについて議論する」「違う考えの人と話し合う」といった表現の練習を始めることも大事だと思います。

子どもという人格を尊重しつつも(本当の意味で子どもと対等に接することができる大人は意外に少ないものです)、成長途中の段階で社会性というものを育てるにはまだまだ大人側の介入が必要であることは子どもと接する際には常に考えてほしいものです。

そしていじめを行っている子どもというのは感覚過敏といった問題から生じる他害などを除けばその子自身もまた何らかのコミュニケーションや心の問題を抱えているケースが多く見られます。私をいじめていた子どもたちも振り返ってみると何らかの問題を持っていたな、と思い当たることがあります。そしてその状態をうまく理解してもらえていない、自分でも表現できないといったストレスから自分より弱い立場(だと思う)者へそれをぶつけていくことが往々にして見られます。

ぜひ大人は自分のコミュニケーションのパターンを考察し、子どもたちを振り回していないか、子どもたちを無意識のうちに自分の都合のいいように利用していないか、自分が使っていることばの意味が適切か、言動にある程度整合性があるか、といったことを振り返ってほしいのです。

これは私が経験した印象にすぎませんが、発達障害の家族(特に自閉傾向が絡む場合)というのは整理されていない段階では家族間のコミュニケーションがうまく取れていないことが多いです。中には親御さんも発達障害の要素が強いため、ということもあります。そして言動に矛盾が生じていることもあります。それと同時に親自身の問題が解決されずにコミュニケーションした結果子どもに影響が出ていることもあります。私自身両親の実家がどちらも様々な事情を抱えている家で生まれ、両親が実家のトラブルに苦しんでいる所を見て育ったこともあり、教会などで他の家族の様子を見て「そういう問題があまりない家もある」ということに逆に驚きました。

コミュニケーション不全が起こっている家庭の場合、コミュニケーションがうまくいっていないことが家庭のルールで、それに対して疑問を持つことがおかしいという状態になっていうことがあります。そういう状態の場合、周辺の大人が子どもを利用している、もしくは自分の心の問題をうまく処理できないままに子どもに接していることが見受けられます。子どもたちと接していると親など日ごろ接している大人のことばには敏感に反応し、それに対して心では疑問を感じつつも身体は反応してしまいます。そして疑問を持つことにたいして罪悪感を持ち、大人はその罪悪感を悪用することがあります。

最近色々な活動をしてみて改めて子どもへの支援も大切ですが、それを取り巻く大人側にもスキルの支援が必要だと感じています。支援する側も本人ばかりではなく、大人を支援するサービスを始めることが急務だと思います。

2.学校システムの強み・弱み

先ほどは家族のコミュニケーション不全について書きましたが、そういう意味では学校という大きなシステムの中にもコミュニケーション不全が起こっていますし、そこから起こる閉塞感が関係者を苦しめているようにも私は感じています。

私にとって義務教育はいじめの期間とほぼ一致していましたが、そんな中でも比較的落ち着いていたのが小学校3年、6年、中学校3年でした。

小学校3年生の担任の先生はとても理解のある方で(後に風の便りでお子さんが障害児だったと聞きました)、その先生の時に給食の好き嫌いが急になくなりました。今から思うと不思議なのですが、急にそれまで苦手だった食べ物もおいしく感じられたのです。そのこともあってか現在は苦手なものについては敢えて自宅では作らないけど、外食などで出されたら食べられる程度になりました。

その先生は「こういう持ち物はうちに持って帰るように」「こういうことはしてはいけない」とルールははっきり示しつつも、さりげなく子どもを観察してフォローしてくれる人でした。母も「あの先生なら安心できる」と思ったそうです。できるところは見つけて他の子が不快にならない程度に褒める、ということも上手な先生で、わりとその年は楽しかったことを覚えています。それは私に限らず他のお子さんについても同様で、その年のクラスは比較的雰囲気が良かったのを覚えています。

残念ながらその先生は翌年1年生の担任となり、間もなく転任してしまいました。4年時は他の先生が担任になったのですがクラス替えがなくて同じメンバーのはずなのに、こうも変わるのか、というほどクラスの雰囲気が悪くなってしまいました。

そういう意味では先生方の対応次第で今後いくらでも変わる可能性を秘めているところだということを先生たちは忘れないでほしいと思います。

小学校というのは一人の担任の先生がずっと授業を受け持つ、という特性のため相性のいい先生だととてもいいのですが、相性が合わないとお互いとても辛い思いをします。また小学校の教室は子どもというまだ成長段階の途中にある集団に対して大人が一人、という特殊な環境です。

そう考えると先生方も大変なのだろうと思います。だからこそクラス担任の先生がひとりでクラスのことを担当するのではなく、複数の先生がサポートに回る、親や地域の人たちも学校運営に参加できるようなある程度オープンの雰囲気を作って欲しいものです。そして地域の人たちも一緒に先生方が子どもたちによりよい支援ができるかを考えられたら、と願ってやみません。

最近学校の先生方が心の病で休職するケースが増えているそうですが、それは学校という場所の閉鎖性が輪をかけているのではないか?と私は考えています。そして学校側や保護者側が先生に対して完璧な理想像を要求するあまり、先生たちも身動きが取れなくなっている面もあると思います。個人的にお会いする先生方はとても真面目で責任感が強くて仕事熱心な方ばかりですが、その反面「ここが限界」ということを表現するのがとても苦手な印象を受けています。

ここ数年ビジネス関係の方と一緒に仕事をするのですが、仕事ができる人というのはいい意味で「いい加減」だな、と感じています。言い換えると自分の限界を見極め、仕事をうまく割り振ったり他人に任せられることができているし、仕事を楽しむことに対して貪欲です。そして自分への評価を色々な形で確認しています。

もちろん教育や医療、福祉という場所はビジネスのように評価がすぐ業績や数値に結び付かない分野ではありますが、何らかの形で自分の成果を確認する機会を設けることはとても大切だと思います。

現在、これらの分野というのは慢性的な人手不足で過重労働になっています。これらの仕事はとても手間がかかる上にその手間に見合った保証や賃金は得られていないと私は考えています。その反面、何かトラブルが起こるとものすごく責められます。

これは私の印象ですが、どうも日本は明治以来の「これらの仕事をするのは心がきれいで、立派な人がなるものだ」「自分たちとあの人たちは違う」という思い込みが強いのではないか、という感じることがあります。できたらそれらの思い込みは捨てて「あの人たちも長所も短所もある人間だ」「私たちも協力して先生や子どもたちを育てていこう」という気持ちも持ってほしいものだと思います。

3.子育てに大切な環境とは?

学校という組織は公立の場合、周辺の社会とは切り離せないものです。特に小中学校では社会の影響を強く受けます。これは行政関係の仕事をするようになって特に感じるのですが、同じ都道府県と一口に言っても地域差というのがかなりあり、教育に対する意識もかなり違いがあるものなのです。

私の経験を例に挙げますと私自身はずっと東京都内で育ちました。就学前に住んでいた団地は周囲の家族も教育や子育てに対してとても高い物を求めていて、サークルなどで勉強会をしたり、親同士で情報交換してより良い環境で子育てをしていこうという気持ちが強い場所だったと思います。

しかし小学校があった所というのはあまり教育に対する質が高いところではなかったようです。新興住宅街で新しく家を買って引っ越してきた核家族が多く、多額の住宅ローンを抱えているため当然生活にゆとりがない家が多い地区でした。学校側も新しくどんどん家が建って生徒数が増えているのに建物や備品を揃えたり教員を増やして対応することが難しいということもありました。

残念ながらあまり仕事熱心ではない教員が集まってしまうということもあったようで、教員の態度が父母会などで問題になったことも何度かありました。もちろん熱心な先生も何人かいましたが、そういった先生はどこか居心地が悪そうにしていたのを覚えています。きっと地域で子どもたちを育てていこうという意識がないと先生方もモチベーションが上がらず、忙しさにかまけて楽な方へ流されてしまうのだと思います。

その後高校の時に父の仕事の都合で4年半ほど別な地区に住んだのですが、そちらは比較的街の雰囲気も落ち着いたところで「こんな所で小中学校時代が過ごせたらもう少し違っていたのでは?」と感じています。プライベートはほどほどに守られながらも地域の中でつながりを持つ、という経験ができたことは私にとってはとても貴重な時間でした。

現在住んでいる場所も高校時代に住んでいた街に似ていて地域の人たちが主体的に街作りや学校への支援に関わっています。もちろんこのようなシステムが作れるのはたまたま地元の学校が市内でも歴史が古く、「自分たちもそこの出身だから」「子どもや孫が通っているから」という理由もあります。システムを作るにはある程度の時間も必要だと思います。

それと同時に新しい人を受け入れる柔軟性も大切ですし、入る側も「知らないので色々教えてください」といった態度があるかどうかもポイントになってきます。幸い我が家は地域の交流行事の時も話しかけてもらい、この地域の居心地の良さを改めて感じています。ある意味子どもが育つにはこのような「居心地の良さ」「お互い様の精神」というのはかなり重要な要素だと思います。

学校経営という観点からも学校側・地域側双方のコミュニケーションが今後発達障害児の支援についてはキーワードになってくると私は考えています。

4.小学校低学年の子どもたちが身につけるといいスキルとは?

就学を機に子どもたちは幼稚園の頃とは全然違う世界に入っていくことになります。中でも大幅に変わるのが「時間割」です。これは同時に教科学習の始まりであり、それに関する物品や時間の管理が必要であることも意味しています。

最近小学生のお子さんがいる方とお話しする機会があるのですが、そこで驚くのが「意外に時間割や持ち物の管理をほとんど親がしていることが多い」ということです。もちろん低学年のうちは親が確認する必要はあると思いますが、徐々に自分でできるよう意識して関わる必要があるのでは?と感じることがあります。

現在成人の方とお話しする機会が増えて成人当事者が就労の際一番必要だと感じるのが「物・時間・金銭の管理能力」です。もちろん職種によってはコミュニケーション能力の方が必要かもしれませんが、仕事をしてみて実感しているのは「これらができることが社会人として信頼関係を築くにはとても大切なことだ」ということです。逆に言えば「これらのことがある程度できていれば、困った時に『日頃ちゃんとやっているから』と助けてくれる人は出てくる」と経験から身につまされています。

信頼関係は目には見えないものですが、コミュニケーションを取るにはまず根底にあるものです。これがないとどんなに努力しても人付き合いはうまく行かないものですし、特に日本の社会はこれができないと本来の業務が優秀でも社内の評価は下がってしまいます。発達障害の当事者の場合優先順位がうまくつけられない、順序の概念や時間感覚を身に着けにくいケースが多いためにこの辺りで信頼を失い、さらにコミュニケーションでトラブルを起こして職場にいづらくなる、というパターンが多い印象があります。

もちろん中には持ち前の才能を発揮している人もいますが、話を聞いていると大抵はフォローしてくれる人(優秀な上司や秘書、マネージャーなど)がいる、もしくは多少時間などにルーズでも課せられた業務ができていれば問われないという職種です。そしてそういう職種は専門職の中でも限られています。「周りが思わず『仕方ないなぁ』とフォローしてしまうような人になればいい」と意見もありますが、そうなると「素直さ」「愛嬌のよさ」「かわいらしさ」というさらに高度かつ曖昧なレベルの要素が絡んでくるため、私はスキルで確実に身につけられることをやった方がいいと思っています。

そして案外難しいのが「物事を続ける」ということです。仕事をしてみて感じるのですが、何かを続けるというのはそれなりにエネルギーがいるし、長期的な見通しやペース配分が必要です。例えていうのならマラソンみたいなもので、完走するのには日頃トレーニングして基礎体力をつけると同時に当日降りかかってくる突発的な状況に柔軟に対応していく能力が問われてきます。

特に不注意の問題が大きなケースでは何かを始めても物事を続けるだけの精神的なエネルギーがない、飽きてしまって他のことに気を取られてしまう、職場で要求された仕事をこなせない、といった理由で仕事を続けることができずに辞めてしまうことが想像以上に多いのが実情です。

そのためにも小学校低学年のうちからスケジュールを一緒に考えて組み立てる、ある程度変更ができるようペース配分をする、といった練習が欠かせないと私は考えています。そのためにも曜日や時間感覚を養うことが必要です。小学生と話をしていると大人が想像している以上に曜日や時間というものを把握していないことが多く、詳しく聴いて行くうちに親御さんがショックを受けることがあります。

具体的な方法としてはカレンダーや手帳を使ってスケジュール管理の練習をする、実際に自分がどういうことに時間を使っているのか記録する、To-doリストを作って忘れそうなことをメモする、タイマーなどを使って時間内に目標のことをやる、といった練習をやることが大切だと思います。これらのことは私が生活の中で実際行っていることですし、今でも試行錯誤している項目です。

今は私が子どもだったころに比べると本当にこれらの時間管理のツールが豊富になってきましたし、時計やタイマーなども入手しやすくなりました。webのカレンダーなども無料で使用できるものもありますからどのような物が使いやすいかといったことを親子で検討することも社会に出て行く準備としてとても必要だと思います。

金銭については大きなテーマなので、次回以降折を見てまた書いてみたいと思います。

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