AC と AS
――はやりの「アダルト・チルドレン」はASとどこか似ている?――


 アドルト・チルドレン(AC)。この言葉がマスメディアに最初にでてきたとき、大人になっても大人になりきれない人のことかな、それじゃまるで私のことのようと一瞬思ったのだけれども違うようだった。最初はアルコール中毒の親のもとで育った人の問題といわれていたが、私の親はアル中ではない。親からひどく虐待されて育ったともいえない。また「よい子」がACになりやすいといわれたが、学校不適応の問題児であってよい子でなかった。それにACだという人は周囲の期待通りに振る舞えるくらいに器用そうな感じではないか。私はぜんぜん違う。それで今まで自分とはあまり関係がないように思っていた。

 自分がAS(アスペルガー症候群)だったのだと知ってから、それではACというメジャーになっているものと我がASというマイナーなものとぜんぜん関係はないのかと確かめたくなった。それで、『アダルト・チルドレンと家族』(斎藤学著、学陽書房)など読んでみる。(ACについて、カルト的と批判する向きもあるが、それで心が楽になったという人たちがいるのならいいではないかと私は思っている。)

アダルト・チルドレンの特徴とは?

うーん、半分くらいはあてはまるような気がする。(かつての自分のことを思い出してみると、ほとんど満点だったみたい。)

アダルト・チルドレンとは、「安全な場所」として機能しない家族のなかで育った人々のことである
もしかしたら、うちもそうだったのか?
ではその「機能不全家族」とは?
[機能不全家族][機能している家族]
  • 強固なルールがある
  • 強固な役割がある
  • 家族に共有されている秘密がある
  • 家族に他人が入り込むことへの抵抗
  • きまじめ
  • 家族成員にプライバシーがない(個人間の境界が曖昧)
  • 家族への偽の忠誠(家族成員は家族から去ることが許されていない)
  • 家族成員間の葛藤は否認され無視される
  • 変化に抵抗する
  • 家族は分断され、統一性がない
  • 強固なルールがない
  • 強固な役割がない
  • 家族に共有されている秘密がない
  • 家族に他人が入ることを許容する
  • ユーモアのセンス
  • 家族成員はそれぞれの個人プライバシーを尊重され、自己という感覚を発達させている
  • 個々の家族成員は家族であることの感覚を持っているが、家族から去ることも自由である
  • 家族成員間の葛藤は認められ解決が試みられる
  • 常に変化し続ける
  • 家族に一体感がある
なんてこった。私が育ったのは「機能不全家族」そのものではないか!
そうすると私はASとACを二重に負っていたのか!?
(しかしこの「機能している家族」みたいな素敵な家族なんてそうあるものか?)
……彼らはなんらかのかたちで自分をアダルト・チルドレンと自覚するようになっているのですが、そう自覚するについては、彼らそれぞれに「生きにくさ」の感覚を抱えていたということがあります。……「自分らしく生きられない」「他人と対等で親しい関係に入れない」といった悩みが共通しています。
これはまるで、私がASと自覚するようになったときのこととおんなじではないか。
そして、
「自覚から癒しへ」
「自分を認め、許し、愛していく」
それは私がとった方法でもある。

 ASである私がACのようでもあるのは偶然だろうか。いや、ほかの多くのASの人も「他人と対等で親しい関係」を持てなくて悩んでいるようだ。

 先天的な認知能力の障害のため幼児期に母親との情緒的コミュニケーションが困難であったことが、ASの対人関係のきつさの原因になっているという論もある。そうすると家族との関係で傷ついてきたというACと、先天的な原因で親との関係が親密になれないASと、共通した問題をもつというのもうなずける気がする。(ほんとかなぁ)

 ASのような特徴がありながら、弱さを見せずに成功した人、たとえばエジソンは、学校に3ヶ月しか行かず母親に教育されて育って、母親をとても素朴に愛していたようだ。ビル・ゲイツもマザコンと揶揄されるくらい母親と仲が良いことで有名だ。(こんないいかげんなことを書いてASの親たちがやたらがんばってしまったらどうしよう…)

 ASであれば学校に不適応で孤立していじめられやすい。子供のときに徹底的に自尊心を傷つけられてしまう。そういったことによってASであることのハンディは拡大することが多いのではないか。トラウマは「家族関係」ばかりではない。

 もっぱら家族関係を問題にしているACだって、ASほどではなくても遺伝的な素因が関係しているだろう。みんな生まれつきのものと環境と自分の意志でやってきたこととが絡み合って今の自分があるのだ。

 先天的な社会性の能力の障害とされているASのことを知ったことで、私は自分を認めざるを得なくなった。自分を否定したら同じような困難を持つすべての人を否定してしまうことになるではないか。そしてASということだけではなく自分の持っているすべての素質や育った環境も運も、何も悪くないと思った。欠けただけのものは得たものがあると信じている。

 ASだろうがACだろうが、そんな自覚が自分に役に立つなら利用すればいいし要らなければ捨てればいい。それだけのことだ。(とりあえず私はこのASをテーマにしたホームページを作るために自分がASであることを利用している。ACとAS、まぎらわしい略語でごめんなさい。)